家庭という言葉
- anamimamiko
- 2023年6月17日
- 読了時間: 3分
『家庭』という言葉に『庭』という字が入っているのは不思議だと、時々ふと思う。
家庭と家族は違う。
私にとっては、家族は人に焦点、家庭は場とか状態に焦点が当たっているイメージ。
『家庭』に『庭』が入っている理由。
それほど、家と庭は切り離せないのだろうか?
現代を振り返ってみると、家庭生活は、ぱっと思いつくもので料理、団らん、休養など、家の内部で行われ、完結することが多い。
また、マンションなど庭なしの家も多く、庭があったとしても、家の外周程度の役割の場合も多い。
よって、『家庭』という言葉の意味を成すために、家に加えて、敢えて庭が必要なのか、と思ってしまうような生活だ。
つまり、家と庭が切り離されている感覚だ。
ひるがえって、昔(江戸時代より前)の人はどうだろう??古代、庭の起源は、祈りの場、時代が進み、浄土庭園や回遊式庭園、石庭など。※
祈祷の場にしろ日本庭園にしろ、庶民に親しいものであったとは考えにくい。
戦国時代に町民の間で茶の湯が流行っていた※ことを考えると、京都など文化の中心地では、庶民の住空間にも坪庭などが出始めていたのかもしれない。
とはいえ、当時の大都会・京都は置いておいても、ごくごく一般の庶民が、坪庭なんかを持っていたとは、やっぱりどうしても想像しにくい。つまり、家と庭が、ここでも結びついてこない。
一方で、漠然と想像されるのは、いわゆる家庭生活が、昔は現代のように家の内部で完結することはなかっただろう、ということだ。
里山というように、自然の恩恵を日々直接享受せずには成り立ちえなかったのではなかろうか?
食べ物は冷蔵庫ではなく畑や山に取りに行ったり、日々水を汲みに行ったり、暖を取るにも薪を取ったり…家と周りの自然を行ったり来たりの生活だったのでは??
そのため、当時の庶民は感覚的に、
家庭生活=家+身の周りの自然
が成り立っていたのではないかと思う。
この身の回りの自然のミニマム、すなわち、自分の権利が及ぶ境界内部が庭ともいえる。
こう考えると、家庭という言葉に、庭が入っていることに、やっと納得がいく。
畑など家の前にない、山は削られ、水脈も埋められた現代の都会生活においては忘れがちだが、やっぱり生活は自分(家)だけでなく、周辺の環境に支えられていると思う。
もちろん、日々、職場やスーパーや病院などに具体的にお世話になっていることは納得できると思うが、自分の家の周辺の土地に支えられているという感覚はどうだろう?
なかなか頭で納得するのは難しいかもしれない。
でも、庭でもベランダでも、そこで静謐な雰囲気の中で土いじりをするときのあの感覚、もしかすると、土地と対話しその古の記憶を呼び起こしているのかもしれない。
話は少しそれて、例えば、家庭的な庭というとき、なんとなく、素人感、野暮ったさ、と結びつく。
なんだか、行き当たりばったりで、まとまらず、その家のお母さんの趣向や性格が透けて見えるような感じ。
一方で、家庭の要素がなくなると、洗練されるものの、温かみや生活感がなくなり、少しの緊張が生まれる。その庭には、お母さんの顔は勿論なく、テイストだけがある。
庭を作ったり手入れするにあたって、家庭感の足し引きは大事だと思っている。演出しようと思いすぎると、生活がなくなってしまうし、流れに任せすぎるとなんだか混沌としてしまう。家庭感を排除するつもりが、それが文脈に合ってないと、野暮ったさが山盛りマシマシになる場合も。
その匙加減がうまくいけば、落ち着くし洗練されている筋道が立ってくる気がする。
答えのない庭作りは続く…
※参考文献
尼崎博正 監修,沖隆裕 今江秀史 町田香 執筆,『すぐわかる 日本庭園の見かた』,(東京美術 2009年)
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